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2006年10月28日 (土)

嫌いな人と私

私にとって、一番嫌な相手、というかむかむかする相手というのが、「自分を愛してくれたら君を愛する」などの「あなたがこうだったら愛する」という条件付の愛を呈示し、私に何かを精神的に(無意識にしろ意識的にしろ)求め、それを私が拒絶すると被害者として振舞う人である。

いくらその人が、私のことを愛しているから、と言っても(言葉によるもののほかに態度による言葉である場合もあるが)、そこには本当の愛をどうしても感じられない。愛してほしいという要求や結局はその人が私ではなく、自分を愛するために、私を利用しているように感じられてしまう。

これは、もちろん男女関係に限ったことではなく、広く私の人間関係において感じることで、最近、なんだか頭を離れないことの一つであった。頭に浮かんでくると、追い払おうとしていたのだが、それでも頭に浮かんでくるもので、これは何か私にとって重要なことなのかもしれない、片をつけなければいけない時期にきているのかもしれないと思った。

何かを自分の胸に聞いてみたいとき、私は本を読む習慣がある。本の内容はそれなりに興味のある本であればよく、そこから答えを引き出そうと思って読むわけではないのだが、読んでいるうちに、何か静かな気持ちになって、ふっと自分の中で何かが分かることがよくある。

本は常に読んでいるのだが、こういう人が嫌いな理由を私の中に探すにあたって、いろいろと一人で考えるのではなく、本を読み続けた。

その私だけの時間の中で、やはり自分を発見することになった。

「私も、人に愛を強く求めている、しかも条件付で」

人から求められる愛、偽りの愛、というものをひどく嫌う理由は、それが本物ではないから、つまり、本物の愛が欲しい、と私自身が強く思っていたからなのです。

ひどく嫌っていた人たちと自分が、根本において同じであったということは驚きであったけれど、少しほっとした。結局自分のことが嫌いだったのだと思う。

学校の教室に貼ってある相田みつをの詩。「うばいあえば足らぬ、わけあえば余る」

私は今まで奪い合っていたのかなと思う。だから足りないんだ。どうすれば、分け合えるようになれるのだろうか。そんなことをボーっと考えているときに思い浮かんだのは、主人のことだった。

主人のことを淡白な人だと思っていた。「どうして私の事が好きなの?」とよく聞いた。言葉に出さなくても、主人の愛は本当に身にしみて私には分かっていた。でもそれがどうしてなのかずっと知りたかった。私のどこが好きなんだろう。主人はしばらく考えても「なんとなく」などと言う。問い詰めると、「一緒にいて楽しいから」「一緒にいて落ち着くから」「なんとなく存在が」と言う。私はこの答えにいつも満足できなかった。私は、他の人とは違う何かがなければ、主人にとっていいと思える何かを「する」とか行動の特徴とか優れているものとか、そういう何かがなければ愛される資格がないと思い込んでいたのである。

しかし、これこそが私の求めていた愛なのではないか、と思えてきた。「無条件の愛」。私の何か行動の側面などを愛しているというのではなく(それゆえ私に何かを求めることはなく)、私の存在自体を愛してくれているのではないか。ただ「わたし」というそこにあるもの、それを愛し、そばにいてくれているのではないか。

ただそばにいてくれること、それがどんなに愛情に満ちた行為であるかが今、分かる。主人はあふれ出す愛情を私にそっと注ぎ、私はそれを浴びている。陽の光を浴びるように。きっと主人もそのようにして育ったのだろう。そう思うと私は、主人の両親に心から感謝の気持ちを持たずにはいられない。

たくさん、陽の光を浴びた。失う「自分」などというものもないということも理解しつつあると思う。そうしたら、今度は私が、周りの人に、愛情を惜しみなく注ぐ番ではないかと思う。

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